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東京高等裁判所 昭和35年(う)2881号 判決

控訴人 被告人 手塚恒雄

弁護人 風早八十二

検察官 屋代春雄

主文

本件控訴を棄却する。

当審の訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人風早八十二が差し出した控訴趣意書及び控訴趣意補充書にそれぞれ記載してあるとおりであるから、いずれもこれを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断をする。

公訴事実にある入場税不納入額は経験則に反した架空の数字であるとの主張について。

被告人が経営していた映画常設館墨田文化映画館においては、昭和二六年一月一日以来いわゆる入場券のたらい廻しの方法によつて入場券の二重売りがなされており、従つて入場券を正規に一回売りをしていたものとして記載されている入場税徴収簿(昭和三五年押第一、一六九号の一及び二)記載の入場税額及びこれに基ずく申告税額が現実に徴収された入場税額を現わしていない過少のものであることは原判決が詳細に説明しているとおりである。従つて、被告人が映画常設館墨田文化映画館の入場税特別徴収義務者又は右映画館の入場税特別徴収義務者である手塚興業有限会社の代表者として、納税義務者たる入場者から現実に徴収した入場税額は、被告人が墨田税務事務所に納入した入場税額を上廻つていたものと認めるのが相当であるところ、原判決は、被告人が右映画館の入場税特別徴収義務者又は同映画館の入場税特別徴収義務者である手塚興業有限会社の代表者として現実に入場者から徴収した入場税額を手塚祐彦作成の週計表(前同押号の六)及び手帳(同押号の一四)並びに被告人作成の手帳(同押号の七ないし一二)に記載してある数額を基礎として認定しているが、右各手帳の数字特に右週計表の数字が真実であると認めるに足りることもまた原判決が詳細に説明しているとおりである。

もつとも、原判決が認定している、被告人が映画常設館墨田文化映画館の入場税特別徴収義勝者又は右映画館の入場税特別徴収義務者である戸塚興業有限会社の代表者として現実に入場者から徴収した入場税額は、被告人が現実に墨田税務事務所に納入した入場税額の二倍ないし三倍に達しているが、入場人員並びに入場券のたらい廻しの率及び回数の点からみて、原判決が認定した数額が必らずしも不可能な数額とはいえないこともまた原判決が詳細に説明しているとおりである。そればかりではなく、前記手帳及び週計表のうち最も記載内容が整備されていると認められる週計表の記載について検討してみるに、当審の証人手塚祐彦の当公廷における供述によれば、同人は、右週計表は銀行等から金融を受ける便宜上、銀行等の信用を得られるような適当な数字を記載したものであると弁解し、且つ昭和二六年二月分から同年九月の第一週分までの各記載は、毎日の入場税込みの総売上とその毎週の合計としてそれぞれ適当な数字を記載したものであり、又同年九月の第二週分から同月の第四週分までの各記載はその外に上映映画のプリント代として適当な数字を記載したものであり、なお同年一〇月分から昭和二七年八月分までの各記載は、更らにその外に毎週の利益の概算として適当な数字を記載したものであるというのであるが、右週計表の以上の期間の記載については、その記載自体からその記載の真偽を判断する手掛りは見当らない。

しかし、右証人の当公廷における証言によれば、前記週計表の昭和二七年九月分から昭和二八年一月分までの各記載は、毎日の入場税込みの総売上、その毎週の合計及び上映映画のプリント代としてそれぞれ適当な数字を記載し、且つ被告人が毎週現実に入場者から徴収し、墨田税務事務所に納入すべき入場税額及び毎週の経費の概算を記載した上毎週の利益の概算を算出して記載したものであるというのであるが、右の各記載は末尾添付の別表(一)記載のようにその計算が大体合つているところ、(一)、同証人が弁解しているように、もし右週計表が銀行対策のためだけに作成されたものであるとすれば、入場税の税率は昭和二七年一二月までは百分の百、昭和二八年一月以降は百分の五〇であつたのであるから、毎週の入場税額は右の入場税の税率を基準として、毎週の売上合計に大体見合うような数字を記載して金融をしてくれる銀行等の係員をして右週計表の記載を信用させるようにすべきであるのにかかわらず、右週計表に記載されている毎週の入場税額は毎週の売上合計とは全く釣合のとれない数字であるばかりでなく、右週計表に記載されている毎週の入場税額が、末尾添付の別表(二)記載のように、前記入場税徴収簿に記載されている当該週間における入場税額と殆んど一致していることが明らかであり、結局右週計表が、五ケ月もの長きにわたつて、同証人によつて、被告人が現実に納入した入場税額を算出する基礎となつている右入場税徴収簿の数字を基礎として毎週の利益の概算が算出されていたものと認められること、(二)、同証人が弁解しているように、もし右週計表が銀行対策のためだけに作成されたものとすれば、毎週の利益の概算が赤字になるということは一寸考えられないところであるが、右週計表によれば、昭和二七年一二月の第二週分が二、八〇〇円の赤字になつており、又同月第四週分が三七、四〇〇円の赤字になつているばかりでなく、右週計表に記載されている被告人が映画常設館墨田文化映画館と同時に経営していた玉映文化劇場の昭和二七年一〇月の第一週、第三週及び第四週分並びに同年一二月第二ないし第四週分についてもいずれも利益の概算が相当の赤字である旨の記載がされていること、(三)同証人の当公廷における証言によれば、映画常設館墨田文化映画館の一ケ月の経費は大体三五万円であるというのであるが、右週計表に記載されている毎週の経費の概算は十万円ないし十二万円であつて、両者の間に大差がないことを総合して考慮すれば、右週計表の右期間の各記載は、その記載自体からみても、いずれもすべて信用するに足りるものと認めるのが相当である。

又右証人の当公廷における証言によれば、前記週計表の昭和二八年二月分及び同年三月分の各記載は、毎日の入場税込みの総売上、その毎週の合計及び上映映画のプリント代並びに毎週納入すべき入場税額としてそれぞれ適当な数字を記載したものであるというのであるが、(一)、同証人が弁解しているように、もし右週計表が銀行対策のためだけに作成されたものであるとすれば、昭和二八年一月以降の入場税の税率は百分の五〇であるから、毎週の入場税額は右の入場税の税率を基準として毎週の売上合計に大体見合うような数字を記載して金融をしてくれる銀行等の係員をして右週計表の記載を信用させるようにすべきであるのにかかわらず、右週計表に記載されている毎週の入場税額は毎週の売上合計とは全く釣合のとれない数字であること、(二)、右週計表に記載されている毎週の入場税額が、末尾添付の別表(三)記載のように、前記入場税徴収簿に記載されている当該週間における入場税額の三倍に当る数字と殆んど合致しているところ、このように右週計表に記載されている毎週の入場税額が前記入場税徴収簿に記載されている当該週間における入場税額の三倍に当る数字と殆んど合致していることについては別段の説明はないが、二ケ月にわたつてこのような記載がなされていたということは決して偶然ということはできないばかりでなく、被告人が現実に納入した入場税額を算入する基礎となつている右入場税徴収簿の数字を基礎として毎週の利益を算出すると、余りにも利益が多いことになるので、その三倍に当る数字を基礎として毎週の利益を算出することにし、もつて毎週の利益を適当額に押えて帳簿の体裁を整えようとしていたものと推認されることを総合して考慮すれば、右週計表のこの期間の各記載も、その記載自体からみて、毎週の入場税額を前記入場税徴収簿に記載されている当該週間における入場税額の三倍にしてある以外には、いずれもすべて信用するに足りるものと認めるのが相当である。

果して然らば、前記週計表はその記載自体からみても、その全体をいわゆる裏帳簿と認めるのが相当であり、その記載はすべて信用するに足りるものと認められ、ひいては右週計表の基礎にされたと認められる前記手帖もいわゆる裏帳簿に類するものと認めるのが相当であり、その記載もまた信用するに足りるものと認められ、結局右手帖及び週計表が銀行対策のためだけに作成されたもので、いい加減な数字が記載されているに過ぎないとする被告人等の弁解は信用することができない。

なお前記手帖及び週計表はさきに、詳細に説示したとおり、いわゆる裏帳簿又はこれに類するものと認めるのが相当であつて、いずれも特に信用すべき情況の下に作成された書面と認められるから、いずれも刑事訴訟法第三二三条第三号の書面に当るものというべく、なお原審第七回公判調書の記載によつて明らかなように、弁護人がこれを証拠とすることに異議を述べなかつたものであるから、原審がその証拠調をした上、これを証拠に援用したことはまことに相当であつて、このことを非難することは当らない。

結局原判示事実はすべて原判決が引用している証拠によつて十分に認定することができ、記録及び証拠物を精査し、且つ当審の事実取調の結果を検討しても、原判決の事実認定には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認の疑はないから、論旨は理由がない。

本件は犯罪後の法令により刑が廃止された場合に該当するとの主張について。

本件起訴状が、被告人に対する公訴事実に対する罰条として示している「地方税法(昭和二五年法律第二二六号)第九二条第一項、第五項」の規定が昭和二九年法律第九五条によつて改正され、その入場税に関する部分が廃止されて娯楽施設利用税に関する規定に改められ、入場税についてはあらたに昭和二九年法律第九六号入場税法が制定され、結局右改正前の地方税法第九二条第一項が規定していた入場税不納入罪に対する罰則が廃止されたこと、右改正前の地方税法第九二条第一項が、入場税特別徴収義務者がした入場税不納入の所為を犯罪とし、これに対して、入場税を特別徴収の方法によらず、申告納税の方法によつて納税する納税者が、詐偽その他不正の行為によつて納入すべき入場税の全部又は一部を免かれた所為に対する刑罰と全く同一の刑罰を科すべきものと規定していること、入場税の税率が昭和二七年一二月までは百分の百、昭和二八年一月以降は百分の五〇であつたこと及び入場税法は、映画館等の経営者等の納税義務者が入場税を一定の納入期日までに完納しないときは、その未納に係る入場税額に対して利子税を科しているだけで、これに対して罰則の規定がないことはいずれも所論のとおりである。

しかし、入場税不納入罪は、入場税特別徴収義務者が、納税義務者たる入場者からすでに入場税を徴収しておきながら、これを一定の納入期日までに地方自治体に納入しなかつた所為を処罰しようとしているものであつて、単純な滞納を処罰しようとしているものではなく、本質的には業務上横領罪に類似する性質を有する行為を処罰しようとしているものであるから、これに対して、入場税を特別徴収の方法によらず、申告納税の方法によつて納税すべき納税者が詐偽その他不正の行為によつて納入すべき入場税の全部又は一部を免かれた所為に対する刑罰と全く同一の刑罰を科することにしたからといつて、必らずしも不当のものということはできないから(最高裁判所昭和二六年(あ)第九九〇号、昭和二九年一一月一〇日大法廷判決、最高裁判所判例集第八巻第一一号第一七四九頁以下参照)、右規定をもつて直ちに違憲とすることは当らず、又入場税の税率が百分の百ないし百分の五〇であるとか、昭和二九年法律第九五号による改正前の地方税法がいわゆるシヤウプ税制勧告案に基ずいて立法されたものであるというようなことによつて、直ちに右規定が違憲であるとすることもできない。

又入場税法は、原判決も説示しているように、租税法体系を整備するため、昭和二九年法律第九五号による改正前の地方税法が、入場税の徴収については特別徴収の方法によることを原則とし、映画館等の経営者等徴税に便宜を有する者を入場税特別徴収義務者に指定し、入場税特別徴収義務者をして納税義務者たる入場者から入場税を徴収し、これを一定の納入期日までに地方自治体に納入すべきものとしていたのを改めて、映画館等の経営者等を入場税の納税義務者とし、映画館等の経営者等をして入場税を一定の納入期日までに所轄の税務署に申告して納税すべきものとしたが、これに伴つて、右改正前の地方税法においては、特別徴収の方法によらず、申告納税の方法によつて納税すべき納税者が詐偽その他不正の行為によつて納入すべき入場税の全部又は一部を免かれた所為を処罰の対象とすると同時に、入場税特別徴収義務者が徴収した入場税の全部又は一部をも一定の納入期日までに地方自治体に納入しなかつた所為を処罰の対象としていたのを改めて、入場税法においては納税義務者であるところの映画館等の経営者等が詐偽その他の不正の行為によつて入場税を免かれ又は免かれようとした所為だけを処罰の対象とすることにしたものであり、換言すれば、入場税法においては、徴収制度の変更により、映画館等の経営者等が入場税特別徴収義務者として納税義務者たる入場者から入場税を徴収して地方自治体に納入するという制度がなくなつたため、必然的に入場税特別徴収義務者がした入場税不納入の所為を処罰の対象とすることができなくなつたため、入場税不納入罪が廃止されたまでのことであつて、論旨の主張するように入場税不納入の所為に対する法益の価値判断が変り、入場税特別徴収義務者がした入場税不納入の所為が可罰性を失つたものとして右所為に対する罰則を廃止したものではなく、もともと入場税不納入罪は、前記のように、その本質においては業務上横領罪に類似する性質を有しているものであつて、入場税特別徴収義務者がした入場税不納入の所為を処罰の対象とすることには別段の違法はないのであるから、入場税法の実施に伴い、入場税特別徴収義務者がした入場税不納入の所為に対する罰則が廃止されたことがその行為の可罰性がないことによるものであるとすることは当らない。

従つて昭和二九年法律第九五号による改正前の地方税法第九二条第一項の規定が違憲であること及び右規定が規定している入場税特別徴収義務者がした入場税不納入の所為が可罰性がないことを前提として、昭和二九年法律第九五号地方税法の一部を改正する法律附則第三七項が無効であるとする論旨は理由がない。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 加納駿平 判事 久永正勝 判事 河本文夫)

弁護人風早八十二の控訴趣意(補充)

第一点本件は犯罪後の法令により刑が廃止された場合に該当し、当然免訴あるべきものである。

本件起訴状の罰条は、地方税法(昭和二五年法律第二二六号)第九二条第一項、第五項であるが、同罰条は、すでに昭和二九年法律第九五号による地方税法改正の結果、廃止されており、起訴当時(昭和三〇年七月四日)には、すでに罰条は存在しない。検察官は第一回公判における起訴状に対する弁護人の釈明要求に即答できず、漸く第三回公判期日になつて昭和二九年法律第九五号地方税法の一部を改正する法律附則第三六項、第三七項を追加する旨の釈明があつた。同附則は、上記罰則の廃止前に為された行為に対する同罰則の適用については従前の例による旨を規定するものであるが、廃止された地方税法第九二条第一項、第五項は、占領法規であるのみならず、その内容自体において憲法諸条項に違反するものであつて無効であるべきはずのものであつたのであり、従つて、講和発効前は格別苟くも憲法が全面的に効力を回復し、裁判所の独立が完全に回復された後においては、本来当然に違憲審査の対象になるべきものであつたのであつて、立法上の廃止は決して偶然ではない。それゆえ、いかに事後立法による附則を設けても、それによつて、すでに廃止さるべくして廃止された違憲内容の罰則を復活維持せしめることはできないものである。

まず、同趣旨の判例を一、二挙示したい。その一は、政令三二五号違反事件に対する最高裁大法廷の昭和二七年七月二二日の著名な判決である。公知のごとく、同判決を成立せしめた多数意見は、その理由においてさらに相異なる二つの意見にわかれている。すなわち多数意見中六名の裁判官の意見に特有の理由は、占領管理下において占領管理のため必要とする事項を実施するため制定せられたいわゆるポツダム命令は、管理下においては超憲法的に妥当したが、平和条約発効により占領管理制度が廃止されると同時に、ポツダム命令は効力を失うべきものである。同様に、ポツダム命令に附帯する罰則も、その本質において全く最高司令官の占領目的達成のための手段にすぎないものであるから、その本質上、占領状態の終了、従つて最高司令官そのものの解消と共に、当然その効力を失うべきものである。もつとも、昭和二七年法律八一号はポツダム命令は、別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においては、この法律施行の日(二七年四月二八日)から起算して百八十日間に限り、法律としての効力を有する、と規定しており、ついで、同年法律一三七号は、政令三二五号を廃止すると共に「この法律の施行前にした行為に対する罰則の適用については、なお従前の例による」旨を規定した。ポツダム命令が、法律としての効力を有することが法律によつて定められたのであるから、その内容が憲法の規定に違反していない限り、平和条約発効後においても効力を持続すると見るべきであるが、政令三二五号の罰則は、犯罪行為の実質的内容を具体的に特定したものでなく実に最高司令官の指令違反を犯罪として処罪するものであるから、法律の内容として現実に不可能なことを定めるものであつて結局憲法に違反する。したがつて、前記法律八一号の制定は、政令三二五号が平和条約発効と同時に当然失効することを妨げるものではない。そうだとすれば、前記法律一三七号が、右失効前になされた行為に対しても罰則の適用につき従前の例によると定めても、事後立法として憲法三九条の趣旨に違反し無効であるといわねばならない。次に多数意見中のその余の四名の裁判官に特徴的な理由によれば、ポツダム命令は、平和条約発効前は、たとい違憲の内容をふくんでいても、超憲法的に有効であつたことについては、上記六名の裁判官と同意見であるが、占領が終了したからといつて、当然的にわが国法として存続する内容も効力ももち得ないということはできない。すなわち、占領終了によつて憲法がその効力を完全に発揮するに至つた後においては憲法違反の法規の存在を容認することはできないから、違憲内容のものは、効力をもちえないこともちろんであるが、違憲でなく、又占領軍の利益のためにのみ志向せられたものでなく、わが国の秩序を維持し公共の福祉を増進するために発せられたものであるかぎり、これを有効な国法として存続させることもできるといわなければならない。しかし、この点から政令三二五号の罰則を見ると、その指令の内容は、アカハタ及びその同類紙又は後継紙について予じめ全面的にその発行を禁止するものであり、通常の検閲制度にもまさつて言論の自由を奪うものであるから、憲法二一条一項および二項に違反するものであることは明らかである。この意味において、同罰則は平和条約発効と同時にその効力を失うべきものと断じなければならない。そうだとすれば、法律一三七号によつて、罰則の適用について従前の例による旨を規定することは、憲法違反の故にすでに効力を失なつている法規を有効に復活させようとするもので上記六名の裁判官の意見と同じく、不当であると断ぜざるをえない。

その二は、団体等規正令違反被告事件に対する東京高裁第七刑事部昭和三一年七月一六日判決である。公訴事実は、法務総裁が調査のため発する出頭要求に対し被告人が之に応じて出頭しなかつた行為が罰則(長期十年の懲役)に触れるというにある。これに対し、同判決は、前記最高裁判決の多数意見中の四名の裁判官の意見を援用しているものの如くであり、団規令の内容において、わが憲法の規定に違背するものがあるにおいては、その部分に関するかぎり、同令は平和条約発効と同時に当然効力を失なつたものと判断している。而してこの見地から、同令第十条を検討すると、そこに規定する法務総裁の調査の対象となるものは、同令所定(とくに、二条、三条、六条及び十二条)の犯罪事実の有無の究明に存すること明らかであり、その名は行政調査権の行使のごとく見えて、その実質は犯罪捜査権の行使にほかならない。しかも、この出頭要求に応じない者に対し第一三条第三号により十年の懲役をもつて訴追しうる強制力が規定されている。してみれば十条、十三条は、犯罪捜査機関ですらもつていない強制捜査権の行使を認める規定であつて、憲法三一条、同三三条等に違反することも明らかである。されば、少くも右不出頭罪についての罰則規定は、平和条約発効と同時に違憲無効となり、以後この規定を根拠として処罰することは到底認容できないところであるから、罰則の適用について従前のとおりと規定する破壊活動防止法附則第三項が設けられていたところで、犯罪後の法令により刑の廃止があつた場合に該当することは疑いない。

そこで、本弁護人は、右二つの判例に共通する判断として本件の判断に援用しうべき論点をあげておきたい。

〈1〉 二つの判例ともポツダム政令中の違憲規定が対象になつている点は、法形式上は、本件と異るが、地方税法は、シヤウプ税法と呼ばれていることによつても端的に表明されているように、昭和二五年、わが国が連合軍最高司令部による占領管理下にあり、立法、行政はもとより司法権までも多大の制約をこおむつていた時期、とくに、わが国が米軍の介入せる朝鮮戦略の足場に供されていた時期に、占領政策遂行のため要求される軍事予算の膨脹の地方財政へのシワヨセに対応して、地方税収入の急拠増大をはかるため、米国が派遣したシヤウプ税制使節団の勧告によつて制定されたものであり、従つて名は法律であつても、実質においては、多くのポツダム政令とかわりない占領法規であつたことは公知の事実である。上に援用した二つの判例の趣旨が、ポ命令の内容について、あくまで実質上の違憲性如何を問題にしていると解すべきであるとするならば、たまたま一はポ命令の形式をとり、他は法律の形式をとつている差異があるにしても、その立法の動機と趣旨において、占領法規たる実質において彼我区別はなく、ましてやその内容の実質上の違憲性を問題にするにおいては、全く同一であり、従つて、平和条約発効後における違憲審査の対象となしうべきものである点において少しもちがいはないといわねばならない。

〈2〉 本来違憲無効なる立法であるにかかわらず、たまたま管理下にあつて裁判所の判断権が及ばなかつたために、いわば不問に附してきたが、裁判権が回復した瞬間から、本来違憲無効の立法は結局違憲無効と判断されねばならないということ。弁護人は、この論旨は、立法形式がたまたまポツダム形式であると、法律の形式をとるものであることによつて変更さるべき理由はないと考える。少くも、占領当局の意思により占領政策遂行のため日本政府に要請し、ひいては国会に要請して公布実施せしめたものであること明白な法律については、その内容において違憲なる部分は、平和条約発効後の裁判所において、ポツダム命令形式の立法におけると同様、違憲判断を下すべきものと思料する。

〈3〉 本来的に違憲内容の罰則であるかぎり、それが廃止された後に事後立法により附則として、廃止前の行為につき当該罰則の適用を規定しても、その違憲無効を治癒しうべくもない。

そこで、本件地方税法旧九二条第一項第五項について、その違憲性を検討する。さて、旧地方税法第九二条一項及び五項の違憲性を論ずるに先立つて、入場税滞納を理由とする処罰の対象とされる特別徴収義務者の性質、端的にいうなら、納税者たる本質について検討しておく必要を感ずる。形式的に解するならば、なるほど納税者は、入場券を購入して入場する個々の顧客にほかならない。この意味で、特別徴収義務者は、論理上、個々の入場券購買者がこれと不可分に納入した税金部分を保管し、これを都道府県に伝達する役目を有する地位にあるということができる。然しながら、それは余りにも形式的な観点であり、入場税の実態本質を錯誤せしめるための税法的カラクリにすぎない。もつとも現実の経験則によつても、形式上の納税者たる入場者は、決して入場税を納めているという意識をもつて入場券を購入するものではなく、あくまで映画館に対する入場代金として支払つているにすぎないし、特別徴収義務者においても、納税者に代わつて取次納入しているという意識でなく、みずから納税者として、入場代金のうちから、所定の税率による税金を納めているという意識である。而して、叙上の意識には、充分の合理的根拠があるのである。つまり、一般の事業税においては、商品の売却代金を取得し、その中から一定比率の納税をなすわけであるが、映画経営の本質もこれと少しも異るところはなく、商品に該当する観覧に対し、商品代金に該当する入場代金を収得し、その中から一定比率の納税をなすにすぎない。いいかえれば、観覧料も、一般商品代金と同じく、その中に、税金、フイルム代金、建物、設備、維持費、人件費、雑費等をふくむ必要経費と一定利潤を見込んで、入場料として算出されるはずのものである。商品の購買者が、その購買のたびに、自分はいくら間接消費税を納めているという納税者意識をもつがごときは、特殊のばあいを除いては社会通念でないのと一般、入場者が、何ら納税者としてでなく、端的に入場料金として入場券を購入していることは至極当然のことである。従つてまた、たとえば、織物税の引上げによつて反物値段があがつた場合、顧客にとつては端的に反物が高くなつたということであり、高いから買わないということであるのと同様、入場税の引上げによつて入場料が高くなつた場合、入場者にとつては、端的に入場料が高くなつたということであり、高くなつたから、月二回の入場を一回に減らそう(購買能力が一定であると仮定)ということである。これを要するに、少くも入場税の映画経営者に及ぼす影響という実態的見地から見るならば、名目上の制度的カラクリにかかわらず、入場税の納税者は、外ならぬ特別徴収義務者たる経営主そのものであり、それ以外ではないといわなけれげならない。弁護人が、入場税の課税対象はあくまで映画館経営主であり、これこそ真実の入場税納税者であると断じるのは、右のような理由にもとづく。

そこで、本論にかえり、まず第一に本件罰則の実質的違憲性を論ずる。地方税法の入場税率は、昭和二五年三月以降十割であり、二八年一月以降五割となつたのであるから、本法制定当時(二五年六、七月)は、十割であつたことが明らかである。十割課税がいかに大多数の中小独立映画興業者にとつて致命的に苛酷な重税であり、かれらの破産倒壊を促進し、大資本映画業者への資本集中独占の過程となつたものであるかについては、原審馬場敬介証人の鑑定的証言をはじめ、原審昭和三一年証第七八二号の各号証(全国映画館新聞、週刊映画プレス、東京タイムス等)を証拠として援用し、さらに詳しい説明を口頭弁論にゆずるが、要約すれば、大多数の独立映画興業者にとつては、その原価計算によつても明らかなごとく、正常な利潤をふくむ経営維持はおろか、税金部分はそのまま赤字になり、赤字を補填して経営を維持せんがためには、殆んど例外なく高利貸から高利金融を仰がねばならなかつたということである。しかし、決定的に重要な問題点は、地方税法第九二条一項五項が、この重税率をそのまま維持しつつ、その徴税の実現のため、滞納すなわち所定の納期までに納税しない行為に対し刑事罰を科していることである。同条項は、脱税と滞納とを同列にあつかい脱税に対する刑罰と全く同一の長期三年の懲役刑を規定しており、刑の均衡を紊るものであることもちろんであるが、それよりも根本的に重大なことは、刑事責任の対象となすことのできない行為に対し、不当に刑責を負わしていること自体である。脱税は、納税者が課税機関を欺罔し、納税義務を免れることによつて財産上不法の利益を得るところの一種の詐欺行為にほかならず、刑事責任追及の対象となる法的根拠があるに反し、滞納は所定の納期に入場税の全部又は一部を納入しなかつたという行為であり、一種の債務不履行もしくは履行遅滞にすぎず、民事上の契約解除もしくは損害金請求(このばあいでは税務行政上、特別徴収義務者の指定取消及び加算税の追徴)等の責を負うは格別、凡そ刑事責任を以て論ずべき性質のものではない。旧地方税法九二条一項、五項は、彼此を完全に混同し、刑責を問うてはならない者に対して刑罰を科せんとするものであつて、近代刑法の根本前提を紊るものである。憲法三一条の「法律の定める手続」は、決していかなる行為に対しても、これを可罰的として法定しさえすれば、当該行為者に対してその自由を奪い、又はその他の刑罰を科しうるという趣旨ではなく、「その場合にも憲法一三条の趣旨が適用され、それが刑事手続における生命・自由の剥奪・制限の実質的・内容的限界をなす」はずである(有斐閣コンメンタール「憲法」佐藤功、二〇六頁)。この見地から考えるならば、滞納を脱税と同列にして重刑を科する前記条項は、明らかに社会的規範意識に反し、具体的には日本国民の法規範意識に反し、憲法三一条の趣旨に反して国民の自由を不当に制限するものというべきである。地方税のなかでも、とくに入場税が苛酷課税の対象となつた理由について、先に援用した原審第二六回公判馬場証人は、飲食税は課税額が正確に捕捉しがたいのに対し、入場税は、「入場税分をふくめた公券の一定数を月々特別徴収義務者に交付し、これを入場者に買わせる以外に入場ができないという制度のため)もつとも適確に把握でき、したがつて、制度的かつ手続的にいうならもつとも徴税しやすいからであると証言している。かくして、占領政策-朝鮮戦略の足場としての日本のやくわり-中央財政の軍事負担の増大と地方財政へのシワヨセ-地方税増徴-その重点的対象としての、刑罰の強制力をもつてする入場税十割課税、徴税の強行の不可避的因果関係における最後の犠牲者となつたものが入場税の納税者であつたといつても決して過言ではない。シヤウプ地方税制が典型的な植民地型課税制度であるといわれる所以もここにある。さればこそ、この苛酷な制度によつて苦しめられた納税者すなわち中小独立映画興業者は遂に結束して集会・国会陳情・請願・世論喚起に立ち上つたことは、前出の諸証拠によつてもうかがわれるのであつて、けだし、それは、憲法第一三条、第二五条、第二九条等の保障する国民の自由と諸権利を自から保守するためのまことに已むを得ざるに出でた行為であつたといわねばならない。以上の理由により、弁護人は、旧地方税法九二条一項五項は、滞納に対し刑罰を科する点において、而も悪質脱税と同列に重い徴役を規定する点において、上記憲法諸条項に違反し、本来無効たるべきものであり、ただ、占領管理下において、ポ命令とその制定の動機、趣旨を同じくする占領法規にほかならない地方税法九二条一項、三項については、ポ命令の内容に対すると同様、その違憲性を判断することを妨げる制約があつたにすぎないとの結論に到達せざるをえないものである。

第二、検察官が原審の釈明において罰条に補足した改正地方税法附則第三七項についてその違憲無効を論ずる。原判決は本弁護人の主張を要約しているので、その引用によつて縷説を省略する。曰く「弁護人は……(本件)罰則は昭和二九年法律第九五条……(以下改正法律という)により廃止され、改正前の地方税法(以下旧地方税法という)中入場税に関する部分に代る入場税法では入場税不納付に対し利子税を課するのみで罰則を規定しておらない。これは単に入場税徴収の方法の変更によるものではなく、旧地方税法下においては苛酷な税率により入場税を徴収したため国民の反感に会い、遂に罰則を廃止するに至つたものであり、旧地方税法の不納入行為の可罰的価値判断が否定され、可罰性がなくなつたことによるものである。従つて、本件の行為については法益の価値判断が変つてその可罰性がなくなり罰則が廃止されたのであるから、刑法第六条を適用すべき場合であり、結局刑訴法三三七条第二号により免訴すべきものである。然るに前記改正法律附則第三七項は、従前の不納入行為を遡及処罰する旨を規定しているが、これが限時法についてならば格別、いかなる意義においても限時法ではない地方税法について、限時法の理論を適用し処罰価値を失わないものとして、右附則を設け遡及処罰することは、刑法第六条、刑訴法三三七条第二項の規定の存在理由を減じ、右の刑罰体系を紊るもので、これは憲法一三条の保障する被告人の自由権を侵害し、同法第三一条、第三九条に規定する罪刑法定主義の大原則を破ることとなり、結局、右附則は違憲無効の規定である旨を主張する」原判決は、弁護人の主張を右のように要約摘示したのち、「弁護人の主張するとおり、刑の廃止が社会事情の変化により法益に対する価値判断が変つたためである場合、従前の行為が本質的にも不可罰的となり、かつ、その刑の廃止により不可罰であることが表明されるので、この場合は正に刑法第六条、刑訴法第三三七条第二号に従うべきであり、強いてこれに廃止前の刑を科することは、右法条の設けられた意義を没却することとなるというべきである」として、弁護人の論旨を肯認しながら、弁護人の主張の前提的事実すなわち、旧地方税法中の本件罰則規定が廃止された事情について全然本質的理解を示さず、結局、徴税制度の変更という全くの形式的な理解にとどまつたことは、深く遺憾とせざるをえない。すなわち曰く「よつて本件につき旧地方税法改正の経緯を見ると、旧地方税法では入場税を直接消費税として入場者を滞納義務者とし、経営者等徴収の便宜を有する者を特別徴収義務者に指定し、入場税に関する犯則事件については国税犯則取締法を準用し、間接国税に関する犯則事件とするなど、特別徴収義務者といいながら、実質は納税義務者としての義務と責任を負わせていたが、入場税が都道府県から国に移管され、入場税法が制定されるに際し、入場税に関する反則事件については国税反則取締法を適用する要があるものの、直接消費税でありながら、間接消費税に関する犯則事件として国税反則取締法を適用することが租税体系を紊ることとなるから、入場税を簡明に間接消費税に改めようとして、特別徴収制を賦課課税制に改め、経営者等を直接に納税義務者とするに至つたことが窺われる。従つて、経営者等は、旧地方税法では特別徴収義務者に指定され、その入場税不納入行為に対し罰則の規定があつたが、その可罰性の如何に拘りなく、入場税法では租税法体系を一貫させるため徴税の制度、方法を変更して直接に納税義務者とされ、その入場税不納入行為に対してはそれが行政法上の単なる義務違反として一種の行政秩序罰たる利子税を賦課徴収されるに過ぎなくなつたことが認められる」

卒直にいつて原判決は問題の所在を外らしていると考える。ここでの問題の所在は、凡そ税金滞納行為に対して刑罰を科することは違憲ではないか、又、その違憲の故にこそ地方税法のこの条項が廃止されたのではないかということである。原判決はこれに答えるに、税法体系の整備の問題をもつてしたにすぎない。原判決は「その可罰性の如何に拘りなく」といわれるが、可罰性の如何こそが問題点なのである。なるほど旧地方税法は、目的のためには手段をえらばず地方税納税者に国税関係法規を準用し、直接税に間接国税に関する法規を適用することなど、勝手な便法を用いていた(原判決もこれを認めている)。この意味で、平和条約発効後、このデタラメな税法体系を改正し、入場税についてもその本質にしたがつて之を間接消費税となし、特別徴収制を賦課制に改め、経営者をその本来の実態にしたがつて納税義務者と規定するにいたつたものであることは、原判決所論のとおりである。併しながら肝心なことは、そのような税制整備(いわば法体系の論理的統一)自体にあるのではなく、その整備のさいに何故、今まで可罰的であつた行為が不可罰的になつたかということである。特別徴収義務者が納税義務者に変わつたのは、単なる制度上の名義の問題であり、原判決の判示自身も認めているように本来納税義務者にほかならない特別徴収義務者が、その実態どおりの名目になつたということにすぎない。同じ実質の者が、特別徴収義務者であればその不納入行為は可罰的であるが、納税義務者となつた途端に可罰性から離脱するという理由はどこにもありえない。同じ犯罪構成要件を具備するのにその行為者が税法制度上ちがつた名目をもつからといつて、その可罰性の有無をわかつ理由は見当らない。してみると、問題は、かような行為に対して可罰性を認めていた旧地方税法の条項があやまつていたか、それとも、同一行為に対し可罰性を抹消した改正地方税法があやまりであるかでなければならない。弁護人はもとより、改正は、この点に関しては、正にこのあやまりを正し、入場税法において、利子税賦課の規定を設けるにいたつたものであると主張しているのである。而してその理由は、すでに述べた如く、右罰則は刑責を科してならないものに刑責を科するもので憲法第三一条に違反するというにあつた。もつとも、弁護人は、決して、国会がしかく明白に従前の罰則の違憲性を意識し、違憲性を直接の理由として、罰則廃止の採決を行なつたと主張しているのではない。すでに引用した証拠をふくむ公知の事実として、弁護人が指摘したいのは、昭和二十五年のシヤウプ税制勧告案の公表に対し、国民の間に(占領管理下にあつたために極めて自己抑制的ではあつたが)鋭どい批判があがつており、同年地方税法公布後も、とくに入場税率十割課税とその滞納に対する罰則規定に対しては怨嗟の声、抗議集会、国会への請願、陳情等が展開されていた事実である。これらの切実な世論が国会に反映すべきは当然であり、これが二十八年の地方税法改正に当り、罰則の廃止を実現にいたらしめた真実の力であつたのである。弁護人は、この経過事実を「法益の価値判断が変つたことによりその可罰性が否定せられた」という表現で説明したのである。右の点に関し、原判決は、判決書の最後のあたりで「徴税制度の変更により行為の準則規定がなくなつたため、必然的に廃止されるに至つたものであつて……法益の価値判断が変つたことによりその可罰性がなくなつたために罰則が廃止されたのではない」と述べているが、ここでも原判決は省みて他をいつているにすぎない。けだし、徴税制度の変更は、入場税の納期内の納入遅滞の可罰性如何の問題とは何ら必然的関係はないことである。法益の価値判断が変つたかどうかは、制度の改正の如何にかかわらず、それ自体として検討されねばならない。原判決が制度の変更を何度くりかえしてみても、法益の価値判断、罰則の妥当性如何は少しも解決されたことにならない。いいかえれば、従前の罰則が妥当かつ必要なものなら、改正法規もしくはそれに伴う新法のどこかに存置されなければならないはずである。しかるに本件罰則は遂にどこにも見出されず、反対に入場税法において、従前の罰則とその構成要件を全然同じくする所為に対し、刑罰ではなく、利子税と称する税務行政上の義務を課しているだけである。それは何故か、ということだけが問題の重要性である。法益に対する価値判断の変更以外に、いかなる理由が見出しえようか。而して、この価値判断の実質的根拠として、罰則の違憲性が根づよく横たわつているというのが、弁護人の主張である。以上の論旨が容認されるならば、「弁護人の主張するとおり、刑の廃止が社会事情の変化により法益に対する価値判断が変つたためである場合、従前の行為が本質的にも不可罰的となり、かつ、その刑の廃止により不可罰的であることが表明されるので、この場合は正に刑法第六条、刑訴法第三三七条第二号に従うべきであり、強いてこれに廃止前の刑を科することは右法条の設けられた意義を没却することとなるというべきである。」という原判決の判示は、そのまま弁護人の論旨として容認されうべく、従つて、これに反する原判決は破棄さるべきものと思料する。

第三点公訴事実にある入場税不納入額は経験則に反し、架空の数字である。

本件公訴事実別表記さい入場税不納入額の証拠として原判決のあげるところは、被告人及びその長男裕彦の手帳、メモ類と、自白証拠のみである。被告人等が何らかの意図の下に(本件では金融機関への呈示の為の手控えとして)任意に作成したものにすぎない手帳、メモ類に証拠能力を賦与しうる法的根拠については正面から規定する法条がないので、(一)刑訴法三二一条一項三号によるものとする仙台高裁昭和二七年二月一三日判決(刑集五巻二号二二六頁)のほか、(二)同三二三条三号の「その他特に信用すべき情況の下に、作成された」書面として認めるもの、(三)同三二一条三項及び四項の準用を主張するもの等の学説がある。そこで、その一つ一つについて、検討する。まず、(一)については、刑訴法三二一条一項三号によるとすれば、それは、「供述者が死亡、精神若しくは、身体の故障、所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができない」場合という条件があり、本件被告人及びノートの記載者たる手塚裕彦は、いずれもこれに該当しないから、この点からいつて、証拠能力を認める前提条件を欠いており、これを証拠とすることはできない。次に(二)の刑訴法三二三条三号によるとするには、同条一号の戸籍謄本類、同条二号の商業帳簿類に匹敵するに足る「特に信用すべき情況の下に作成された書面」でなければならないが、本件手帳類は、内心の心覚えにすぎない日記のあいだに任意に記載された数額であり、その作成動機は、既述の如く、金融機関に融資をあおぐ為意識的に虚偽の誇張数字をかまえるにあり、端数のない不自然な数字であつたことは、公判廷供述によつても明かであり、「特に信用すべき情況の下に作成された書面」とは到底認めることができず、畢竟証拠能力を与えることはできない性質のものである。最後に、(三)の見解すなわち刑訴法三二一条第三項及び四項の準用説は、証人が完全に記憶を失ない、メモを見ても記憶を喚起できないという特殊の場合に反対尋問の機会を与えることを条件として証拠申請をなしうるとする、いわゆる「メモの理論」を前提とするものであるから、前述の如くかくの如き前提を欠くこと明らかな本件においては採用するに由なき見解である。

(その他の控訴趣意は省略する。)

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